・1925年の初代登場から100年、ファントムは顧客の美学と時代精神を映す「動く芸術作品」として進化
・王侯貴族からセレブリティまで、社会・文化の変遷に合わせて形を変えたビスポーク文化
・グッドウッド工房では芸術とクラフトを融合、次の100年に向けた「個の表現」を深化
ロールス・ロイスは2025年、ブランドを象徴する「ファントム(Phantom)」の誕生から100周年を迎えました。1925年5月に初代モデルが登場して以来、ファントムは単なる高級車ではなく、時代の価値観・文化・技術を映し出す“走る芸術”として進化を遂げてきました。その核心にあるのは、顧客の理想や哲学を一台一台に投影する「ビスポーク(Bespoke)」の精神です。
初代ファントムの時代、ロールス・ロイスは完成車ではなく「ローリング・シャシー(走行可能な骨格)」を提供し、顧客は好みのコーチビルダーにボディ製作を依頼しました。1920年代のインドでは、マハラジャたちが金属細工や宝飾を施した豪華なファントムを競い合い、なかには銀で装飾された車体や、太陽光を反射して輝く銅製ボディを採用した例もありました。それは単なる移動手段ではなく、支配者の威光を示す象徴でした。

時が流れ、ファントムは英国王室や国家元首、各国の著名人に選ばれる“権威の象徴”となりました。ロンドン市長の公務用として製作されたファントムVIには、儀礼用のメイス(笏)を支える特注アームレストが設けられるなど、用途に合わせた設計がなされました。ファントムはその威厳ある存在感によって「力」と「品位」を体現し、同時にプライバシーを守るための聖域でもありました。
初期のモデルには厚手のカーテンを備えた「プルダー(purdah)仕様」があり、外からの視線を完全に遮断できる設計が人気でした。英国王室のために製作されたファントムIVには、後席を電動で前後に移動させ、乗員が必要に応じて姿を隠せる機構も搭載。後継のファントムVでは透明なドーム型ルーフとアルミ製カバーを組み合わせ、必要なときだけ姿を現すという、極めて象徴的なプライバシー技術が採用されました。

20世紀後半になると、ファントムは“権威の車”から“名声を守る車”へと役割を広げました。マスメディアの拡大によって、著名人や企業家が公私を分けることが難しくなる中で、ファントムは静謐な避難所として機能。1965年、ジョン・レノンが注文したファントムVには英国初のスモークガラスが採用され、現代的な「セレブリティカー」の原点ともなりました。また、防音仕様の仕切りと電動通話システムを備えたモデルも登場し、重要な会談や機密の場にも用いられました。
ファントムの進化は、装飾美にも表れています。1920〜30年代にはアールデコ様式が隆盛し、幾何学的な造形と金属光沢を活かしたファントムIIIなどが誕生。特に「ファントム・オブ・ラブ(Phantom of Love)」と呼ばれる1926年のモデルは、英ウールワース社の財務責任者クラレンス・ガスクが妻への贈り物として製作した一台で、内装はヴェルサイユ宮殿を彷彿とさせる贅沢な造り。金箔装飾の天井、オーブソン織りのタペストリー、18世紀フランス様式のキャビネットなど、芸術と贅の極みを体現しました。
一方、戦後から1960年代にかけては、ラグジュアリーの価値観が“控えめな上質”へと変化。英国製ウール「ウエスト・オブ・イングランド」クロスや、上品なピンストライプの「ウィリアム・プレイン・ツイル」が愛用され、素材の質と職人技が重視される時代へ。エリザベス2世のファントムも、ライトグレーやバローダブルーなど落ち着いた色調で統一され、王室の品格を体現しました。
また、アメリカの禁酒法時代には、ファントムに隠し酒庫を設けるという粋なオーダーもありました。1930年代以降はラジオやグラモフォン(蓄音機)、1960年代にはテレビが搭載され、車内は移動するサロンとして進化。エルヴィス・プレスリー仕様のファントムには、彼専用のマイクロフォンが設けられたことでも知られています。
21世紀に入り、グッドウッドの新生ロールス・ロイス工房は、ビスポーク文化を“芸術”の領域へと昇華させました。「ファントム・セレニティ」は、職人が手描きしたシルクを用い、後席を花咲く庭園のように演出。海の英雄マルコム・キャンベル卿に捧げた「ウォータースピード」や、オランダのデザイナー イリス・ヴァン・ヘルペンとのコラボによる「シントピア」など、芸術・ファッション・クラフトが融合したモデルが続々と誕生しました。特にシントピアは、700時間を費やしたシルクヘッドライナーと専用の香りを備えた“世界に一台のアートカー”として高く評価されています。
最新作「ファントム・シンティラ(Scintilla)」は、象徴“スピリット・オブ・エクスタシー”の動きをモチーフに、約86万9500針の刺繍と4450個の光孔を組み合わせた「星空のヘッドライナー」を採用。静謐の中に動的な美を宿した、まさに現代の美学を体現するモデルです。
100年にわたるファントムの歴史は、社会の変化とともに“贅沢”の意味を問い直し続けてきました。1920年代の煌びやかさから、戦後の静けさ、現代の芸術的洗練へと至る軌跡は、まさに人間の創造力そのものの証です。
ロールス・ロイスCEOのクリス・ブラウンリッジ氏はこう語ります。
「ファントムの100年の物語は、人間の物語そのものです。顧客が求めたディテールの一つひとつが、文化・社会・技術の変化を語り、同時にファントムの永続的な魅力を示しています。」
ファントムは今もなお、世界で最も優れた自動車であり、そして“持ち主にとって最も自分らしい車”として、次の100年へと走り続けます。
【ひとこと解説】
「ファントム(Phantom)」という名前は、英語で「幻影」や「幽玄な存在」を意味します。ロールス・ロイスがこの名を1925年の初代モデルに冠したのは、静粛性と滑らかな走行性能がまるで“音もなく現れる幻”のようであることに由来します。当時すでに同社は「シルバーゴースト(銀の幽霊)」で知られており、その精神を受け継ぐ存在として「ファントム」は誕生しました。以来、圧倒的な静寂と威厳を象徴するモデル名として100年にわたり継承されています。
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